2010年8月20日金曜日

Harvard University's Justice with Machael Sandel :Lecture01 THE MORAL SIDE OF MURDER Lecture02 THE CASE FOR CANNIBALISM 

ハーバード大学 マイケル・サンデル教授:

Lecture01 THE MORAL SIDE OF MURDER
Lecture02 THE CASE FOR CANNIBALISM 

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【参考リンク】:

http://www.youtube.com/watch?v=kBdfcR-8hEY


Harvard | 2009年09月04日
PART ONE: THE MORAL SIDE OF MURDER
If you had to choose between (1) killing one person to save the lives of five others and (2) doing nothing even though you knew that five people would die right before your eyes if you did nothing—what would you do? What would be the right thing to do? Thats the hypothetical scenario Professor Michael Sandel uses to launch his course on moral reasoning. After the majority of students votes for killing the one person in order to save the lives of five others, Sandel presents three similar moral conundrums—each one artfully designed to make the decision more difficult. As students stand up to defend their conflicting choices, it becomes clear that the assumptions behind our moral reasoning are often contradictory, and the question of what is right and what is wrong is not always black and white. 

PART TWO: THE CASE FOR CANNIBALISM

Sandel introduces the principles of utilitarian philosopher, Jeremy Bentham, with a famous nineteenth century legal case involving a shipwrecked crew of four. After nineteen days lost at sea, the captain decides to kill the weakest amongst them, the young cabin boy, so that the rest can feed on his blood and body to survive. The case sets up a classroom debate about the moral validity of utilitarianism—and its doctrine that the right thing to do is whatever produces "the greatest good for the greatest number."



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【出展リンク】: http://www.visualecture.com/wordpress/?p=3079

JUSTICE 第1回「殺人に正義はあるか(想像編)」「殺人に正義はあるか(実例編)」ハーバード大学:サンデル教授:白熱教室

Lecture01「殺人に正義はあるか(想像編)」
1人の命を犠牲にすれば5人の命が助かるなら、1人の命を犠牲にすることは正しいのか。もし1人の命の犠牲の仕方が殺人であったならばどうか。その殺人に正義はあるのだろうか。電車事故のケースと医療のケースで考える。ここで大きく2つの考え方がみえてくる。5人と1人の命を天秤にかけ結果を考えてから決断を出す考え方と、結果を考えるのではなく行動の動機、殺人という行為が無条件的に正義ではないと考え決断を出す考え方だ。そして前者は哲学者ベンサムが、後者は哲学者カントが代表的な哲学者であると示す。また、政治哲学を学ぶことにリスクがあることをソクラテスの時代と重ね合わせて説明している。サンデル教授は締めくくりに、この講義の目的は理性の不安を目覚めさせ、それがどこに導いていくのか見ることだと述べる。
ハーバード大学
マイケル・サンデル教授

Lecture01
THE MORAL SIDE OF MURDER
Lecture02
THE CASE FOR CANNIBALISM 

時間:54:56


Lecture01「殺人に正義はあるか(想像編)」

この講義は正義についてです。まずこの話からはじめよう。
君は路面電車の運転手で、時速100キロの猛スピードで走っている。君は行く手に5人の労働者がいることに気付いて電車を止めようとするが、ブレーキは効かない。君は絶望する。そのまま進んで5人の労働者に突っ込めば5人とも死んでしまうからだ。
ここではそれは確実なことだと仮定しよう。
君は何もできないとあきらめかける。が、その時、脇にそれる線路待避線があることに気付く。しかし、そこにも働いている人が1人いる。ブレーキは効かないがハンドルは効くので、ハンドルをきって、脇の線路に入れば、1人は殺してしまうけれども、5人は助けることができる。
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ここで最初の質問だ。
正しい行いはどちらか?あなたならどうする?多数決をとってみよう。

ハンドルをきって避けるという人は?手を上げて!
(大多数の人が手をあげる)
では、曲がらずに直進するという人は?
直進するという人は、手を上げたままで、、、、極少数の人だけだね。
大多数の人は脇にそれる。
なぜ、そうすることが正しいと考えるのか理由を聞いていこう。
多数派からはじめよう。
なぜ、直進せず、脇にそれようとするのか。
なんで、そうするのか?その理由は何か。誰か理由を説明してくれる人!
学生A:1人を殺せばすむところを5人を殺すのは正しくないからです。
1人で殺せばはすむところを5人も殺せば正しくない。
たしかに。いい理由だ。
他には?皆この理由に賛成かな?君は?
学生B:911同時多発テロ事件と同じです。
ワシントンに向かった飛行機の乗客は地上で犠牲になる人より数が少ない自分たち乗客が犠牲になることを選んだからヒーローなんです。
そこにある原理は同時多発テロの場合と同じだと言うことだね。悲劇的な状況だが、5人が助かるなら、1人を殺すことの方がいいということだ。この意見がほとんどかな?では少数派の意見をきいてみよう。
ハンドルをきらない理由は何かな?
学生C:これは大虐殺や全体主義を正当化する真理と同じです。ある人種を残すために、他の人種を消滅させるんです。
では君は?身の毛もよだつ大逆殺を避けたいがためにまっすぐ突っ込んで行って5人を殺すってことかな?
(会場笑い)
学生C:はい、たぶん。
突っ込む?他には?今のは勇気ある答えだったな。
では、路面電車の別のケースを考えてみよう。
こっちのケースでも5人を助けられるなら1人が死んでもしかなたい。
という原理を皆が指示し続けるかどうか、みてみよう。
今度は、君は路面電車の運転手ではなく傍観者だ。電車の線路が見える橋にいて、見下ろしていると。電車がくるのが見えた。線路の先には5人の労働者がいる。ブレーキはきかない。このままだと電車は猛スピードで電車は突っ込み5人は死ぬ。今回は君は運転手ではない。
何もできない、と諦めかけた時、自分の隣に橋から身を乗り出しているものすごく太った一人の男がいることに気付く。(会場笑い)
もし、君がこの太った男を突き落とせば、彼は橋から走ってくる電車の前に落ちる。彼は死ぬが5人を助けることができる。
さて、彼を橋から突き落とすという人は?手をあげて?
じゃあ突き落とさない人は?
突き落とさないという人がほとんどだ。
さぁここで質問だ。
1人を犠牲にしても5人の命を助けた方がいいといった原理はどうなったんだ?
さっきは ほとんどが賛成した原理はどうなったのかな?どちらのケースでも多数派だった人の意見を聞きたい。どうやって、この2つの違いを説明をするのか?君は?
学生D:2番目のケースでは人を突き通すという能動的な選択を行わなければいけません。僕が突き落とさなければ彼をその状況とは全く関係なかったはずで、僕が彼を突き落とすという選択をしたせいで関係なかったはずの状況に彼を関わらせることになります。最初のケースは運転手と5人と1人という、3者の関係だけでしたけど、今回はそれに別の要素が加わっていると思います。
でも、待避線の男だって、太った男と同じで、自分の命を犠牲にすることを自分で選んだわけじゃないよね。
学生D:その通りです。でも、線路の上にいた。
こっちの男は橋の上にいた。
(会場笑い)
後でまた意見を言ってくれ。これは難しい質問だ。君の意見はすごくよかったよ。
この2つのケースで多数派が矛盾した答えを選んだ理由がわかる人は?君!!
学生E:最初のケースは1人が死ぬか5人が死ぬかを選ばないといけないわけで、その結果、人は死にますが、死ぬのは電車が原因であって、自分が手を下したせいではないし、電車のブレーキは効かない上、一瞬でどちらかを選ばなければなりません。
でも、太った男を落とすのは殺人行為です。突き落とすか落とさないかは自分の選択だけど、電車の暴走は自分が選んだことじゃない。だから状況が違います。
今の意見に対して反論がある人は?いい意見だったが、今の意見が正解だろうか。
学生F:それは違うと思います。
どっちにしても、死ぬ人を選ばなければいけないのは同じです。ハンドルをきって、1人を殺すのも自分の意思による行為だし、太った男を突き落とすのも自分の意思による行為です。いずれも自分の選択であることに変わりはありません。
反論があるかな?
学生D:それはちょっと違うと思います。実際に線路に突き通して殺すという行為だと自分がじかに殺すことになります。
自分で手を下すからねぇ。
学生D:そうです。運転していたら、それが人に死をもたらしたのとは違います。不謹慎かもしれませんが。
いや、いい意見だ。君の名前は?
学生D:アンドル
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じゃあもう一つ質問だ。
橋の上に立っていて、君はハンドルを回すと彼を落とせるとしよう。(会場笑い)
ハンドルを回すかい?
学生D(アンドル):いや、それはさらにしてはいけないことのように思います。
偶然、ハンドルに寄りかかっちゃったら回っちゃったとかならいいけど。(会場笑い)
あるいは電車が落とし穴のスイッチに向かって突進しているとかなら、納得できますけど。
よろしい。やはり抵抗があるんだね。
最初のケースではハンドルを切るのは抵抗がなかったけど。
学生D(アンドル):最初のケースでははじめから状況の当事者だったけど、このケースは傍観者なわけです。男を突き落として、はじめて当事者になるわけで。
よし、じゃあ、このケースはしばらく脇に置いといて違うパターンを考えよう。
今度は君は緊急救命室の医者だと仮定しよう。
そこへ6人の患者がやってくる。彼らはひどい路面電車の事故にあったんだ。(会場笑い)
内5人は中程度の怪我をしている。1人は重傷だ。重傷患者に一日中かかり切りで手当をすれば助かるが、そのかわり5人は死ぬ。逆に中程度の5人の手当をすれば、5人は助かるが、その間に重傷患者は亡くなる。
医者として5人を助けるという人は?
では、1人を助けるという人は?
とても少ない、一握りの人だけだ。同じ理由だろうね。1人の命対5人の命だ。
では、別の医者のケースだ。
今度は君は移植医で、生きるためには臓器移植がどうしても必要な5人の患者を抱えている。5人はそれぞれ心臓、肺、腎臓、肝臓、を必要としている。最後の1人は膵臓だ。そして、臓器のドナーはいない。君は5人の死を目前にしている。
その時、君は隣の部屋に健康診断を受けにきた1人の健康な男がいるのを思い出す。
(会場笑い)
彼は昼寝をしている。
(会場笑い)
そっと部屋に忍びこんで、5つの臓器を抜き取れば、その人は死ぬが5人を助けられる。
自分ならそうする、という人は?、、、いるかな?
そうする人は手をあげて?
上の方の人は?
学生F:僕はそうします。
気をつけて、乗り出して落ちないように。
(会場笑い)
そうはしないという人は?
よーし、じゃあ意見を聞こう。上にいる健康な人から臓器を抜き取ろうとする君!理由は?
学生F:僕は違う可能性にかけたい。臓器が必要な5人の可能性の内、最初になくなった人の4つの臓器を使って残りの4人を助けるんです。
それは名案だ。(会場拍手)
実にすばらしい。ただ、一つの難点は
私が設定した哲学的な問題を台無しにしてしまったところだ。(会場笑い)
さて、今までの話や議論を離れて、議論が展開してきた方向について明らかになったいくつかの点を見て行こう。今までの討論から道徳の原理がいくつかその姿を見せはじめている。これらの道徳的な原理がどのようなものか考えてみよう。
討論から出てきた最初の道徳的原理は何をするのが正しくて道徳的か。ということは行動の帰結で決まる、ということだ。つまり、帰結。結果が良ければいいわけだ。1人が死ななければいけないとしても、5人が助かる方がいい。これが帰結主義者が道徳を論じる時の論じ方だ。
帰結主義者は行為の帰結に道徳性を求める。つまり、その行為によって社会が恩恵を受けることが大事なわけだ。
しかし、もう一歩進んで考えてみたところ、別のパターンでは、帰結主義的な論法には賛同しない人が多かった。ほとんどの人が橋から太った男を突き落としたり、何の罪のない患者から臓器を取り出したりすることにはためらいを覚えた。
ためらう理由は、行為の帰結とは関係なく、行為の本質に関係があるようだったね。帰結として5人が助かるとわかっていても、そうしようと思わない人が多かった。何の罪のない人を1人殺すことは、無条件で、即ち、定言的に間違っていると考えた。少なくとも例としてあげた話の2番目のケースでは無条件で、定言的に間違っていると考えた。これは道徳を考える際には定言的な考え方もある。ということを示している。
定言的な考え方では、帰結がどうあれ、ある種の絶対的な道徳的必要条件や義務や権利の中に道徳性を求める。
今後の講義では帰結主義者と無条件的な道徳原理との間を見ていく。
帰結主義者の道徳理論で、最も影響力のある例は18世紀のイギリスの政治哲学者ジャネミーベンサムが生み出した主義。功利主義だ。一方、定言的な道徳理論の最も重要な哲学者は18世紀のドイツの哲学者イマヌエル・カントだ。
この講義ではこの2つの異なる道徳理論の論じ方を学び、評価すると同時に他の論じ方も見ていく。
私のこの(12回の)講義では数多くの名著を読んでいく。アリストテレス、ジョンロック、イマヌエルカント、ジョンスチュワートミルらの著作だ。本を読むだけではない、哲学的問題を定義する、現代政治や、法律の議論も取り上げる。平等と不平等。アファーマティブアクション。言論の自由対ぞうお発言。同性同士の結婚、徴兵制など。一連の時事問題についても議論していく。なぜか?
過去の抽象的な名著を蘇らせるだけでなく、哲学のために私たちの日常生活。及び、政治的生活における哲学的問題を明確にするためだ。だから、これらの本を読み、問題を議論し、どのように名著同士が情報を与え、啓発し合うかをみていこう。
楽しそうに聞こえるかもしれないが、ここで一つ警告しておこう。どんな警告かというと、これらの本を自己認識におけるエクササイズ、自分をより深く理解するための訓練として読むことにはある種のリスクがある、ということだ。リスクには、個人的なリスクと政治的なリスクの両方があるが、そのことは政治哲学を学ぶ学生なら、誰でも身をもって知っていることだと思う。
なぜこういうリスクが発生するかというと、哲学という学問は私たちを私たちが既に知っていることに直面させて、、、私のたちに教え、かつ、動揺させる学問だからだ。
ここに皮肉がある。この講義の難しさは君たちが既に知っていることを教える、という点にある。それは慣れ親しんで、疑いを感じたこともないほど、よく知っていると思っていたことを見知らぬことに変えてしまうこともある。私たちが今日の講義の冒頭で取り上げた例がまさにそれにあたる。遊び心とまじめさを両方織り交ぜた仮説だったつもりだが、哲学の本がどう役にたつかというのも、これと同じだ。
哲学は私たちを慣れ親しんだものから引き離す。新しい情報をもたらすことによってではなく、新しいものの見方を喚起することによって引き離すのだ。しかし、ここにもリスクがある。慣れ親しんだものが見慣れないものに変わってしまえば、それは二度と同じものにはなりえない。自己認識とは純真さを失うようなものだ。不安を感じるだろうが、私たちは皆、そんな思いを経験し、探求を続けてきた。
この試み難しく、しかし、おもしろくしているのは、道徳や政治哲学は物語であり、その物語がどこに連れて行ってくれるかわからないが、それが自分についての物語だということはわかっている、ということだ。これが個人的なリスクだ
では政治的リスクは何だろうか。本を読み問題を議論することで、よりよい責任感のある市民になれると、君たちに約束するのも一つの方法だ。それによって君たちは公共政策の前提を検討するよういなり、自分の政治的判断に磨きをかけ、公共の事柄により効率的に参加できるようになる。
しかし、この約束は部分的にしか実現せず、違う結果に終わってしまうことが多い。政治哲学はほとんどの場合、そのように機能してこなかったからだ。政治哲学は君たちを良い市民にするよりも、悪い市民にする危険性を秘めている。少なくとも、良い市民になる過程で、一旦は悪い市民になってしまう可能性もある。なぜかというと、哲学というものは人を社会から距離を置かせ、衰弱するような活動だからだ。
ソクラテスの時代でもそうだった。ゴルギアスという対話の中でソクラテスの友人の1人、カリクレスは彼に哲学をしないように説得する。カリクレスはソクラテスにこう言う。人生のしかるべき時期に節度をもって哲学を学ぶなら、哲学はかわいいおもちゃだ。しかし、節度を超えて哲学を追求するなら破滅する。私の助言をききなさい。カリクレスはこう続ける。議論を捨てよ。高等的な人生の成果を学べ、気の利いた屁理屈に時間を費やしている人ではなく、善良な生活と評判と他の多くの恵みを持っている人を手本にせよ。
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要するにカリクレスはソクラテスに、哲学なんてやめて、現実を見ろ!
ビジネススクールへ行けと言っているのだ!(会場笑い)
カリクレスの言うことも最もだ。哲学は私たちを常識や約束事、何となくそうだと信じていることに疑いを抱かせる学問だ。これらの個人的にも政治的にもリスクである。そしてこれらのリスクに直面した時、よく使われる言い訳。それが、懐疑主義だ。
例を上げると、
私たちは色々なケースや原理について議論をしたけど、何も解決しなかった。アリストテレスやロック、カントでさえ長年かけても解決できていないのだから、この講堂に集まった私たちが1学期の講義で解決できる分けがない。要するに各自が自分なりの原理を持てばいいのであって、それ以上の議論は必要ない。論じても無駄である、これが懐疑主義の言い訳だ
これに対しては私は次のように答えたい。
たしかにこれらの問題は長年に渡り議論されてきた。しかし、それがくり返され、議論され続けてきた、まさにその事実が。この問題の解決は例え不可能であっても議論を続けることは避けられないことを示唆している。
なぜ避けられないかと言うと、私たちは毎日、これらの疑問に答えを出しながら生きているからだ。だから懐疑主義に飲み込まれ諦めてしまい、道徳に関する熟考をやめてしまっては解決にならない。
カントはこの懐疑主義に絡む問題を次のように表現している。
懐疑主義は人間の理性の休息所である。そこは独善的なさまよいを熟慮できるところだ、しかし永久にとどまる場所ではない。単に懐疑主義の同意しても、理性の不安を克服することは決してできない。
私は対話や議論を通じてある種のリスクと誘惑、その危険と可能性を示そうと思う。
この講義の目的は理性の不安を目覚めさせ、それがどこに導いていくのか見ることだと述べて、締めくくりの言葉としたい。
どうもありがとう。

Lecture02「殺人に正義はあるか(実例編)」
実際にあった話を例に、許される殺人はあるのかを考える。19世紀のイギリスで乗組員4人の船が沈没した。4人は救命ボートに避難したが、食糧はカブの缶詰2つとだけで、真水はなかった。4日目、カブの缶詰を1つ開けて食べ、5日目亀をつかまえ、亀と残りのカブの缶詰で数日過ごした。そのから8日間、彼らには何もなかった。19日目船長は残りの者を助けるためくじびきを行い誰が死ぬか決めようと言ったが、反対され結局はくじは行われなかった。20日目、海水を飲んで今にも死にそうで、しかも身寄りもいなかった17歳の乗組員パーカーを殺した。4日間、乗組員3人はパーカーの身体と血液で生き残った。そして助けがきた。彼らは裁判にかけられ、3人が生き残れるのなら1人の犠牲は仕方がないと論じた。この事件に対して学生たちの意見から新たに3つの問題が提起された。(1)殺人は殺人であり正当化されるべきではないという反論から、殺人が正当化され得ないのは17歳の少年にも基本的人権があるからだろうか、だとしたらその権利はどこからやってくるのかという問題。(2)もし皆がくじをすることに同意していればと仮定すると、殺人は許されたかもしれないと思う人は増えた。なぜ、ある公正な手続きをふめば、それによって生じた結果は正当化できるのかという問題。(3)もしパーカーが強制でなく、残りの者を助けるために自ら同意したと仮定すれば、命を奪うことに対して許されると思う人は多かった。ではなぜ、同意があれば命を奪うことが道徳的に許されるようになるのかという問題。この3つの質問に答えるためには、何人かの著作を読まなければならないとし、次回以降にまわすとした。

Lecture02「殺人に正義はあるか(実例編)」

ここまでの講義で、道徳的なジレンマを巡る話をいくつかさせてもらった。路面電車や医者や健康なのに臓器を取り出されそうになった患者の話だった。そして、議論を通して、2つのことがわかってきた。
1つは議論の展開の仕方だ。私たちはまず、ここのケースについて判断することからはじめ、その判断の背後にある理由、もしくは原理をはっきりさせようとした。別のケースを検討する際には、それらの原理を再検討し、他の原理と照らし合わせて見直す、という作業をした。
すると、それぞれのケースについての判断や見直した原理を整合がとれたものにしようとする無意識の圧力が働くこともわかった。また、討論からでてきた論争についてもわかったことがある。私たちは自分の行為が道徳的であるかどうかを、その行為の帰結によって判断する傾向があることに気付いた。
これが帰結主義者の道徳理論だ。
しかし、行為の道徳性を帰結から判断しないケースがあることにも気付いた。私たちの多くが行為の帰結ではなく、その行為の内在的な性質が道徳的に重要であると感じるケースもあった。
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例えば、1人の命を犠牲にして5人を助けた場合、帰結だけみれば良い行為にもk、その行為は無条件に許されないと感じる人もいた。そこで私たちは帰結主義者の道徳的原理と無条件的道徳的原理を対比させて考えることにした。
今日から何回か、帰結主義者の道徳論の中で、最も影響力のある見解の1つを検討していく。それは功利主義の哲学だ。
ジェレミー・ベンサムは18世紀のイギリスの政治哲学者で、功利主義の道徳理論にはじめて明快で系統だった説明を与えた。
ベンサムの理論の根幹をなす考え方は、とてもシンプルなもので、それに道徳的に共感する人は多い。ベンサムの基本的な考え方とは正しい行いとは、効用を最大化するものだ、というものだ。
ベンサムのいう効用とは何を指すのか。彼のいう効用とは苦痛よりも快楽、すなわち喜び。受難よりも幸福、というバランスを意味している。
さて、ベンサムがどのようにして効用を最大化する原理にたどりついたかを考えてみよう。
彼はあらゆる人間を観察するところからはじめた。人間は誰でも、苦痛と快楽つまり喜びとの支配されている。私たち人間は喜びを好み、苦痛を嫌う。だから我々の道徳性はそれに基づくべきだ。人生で何をすべてか考える時、立法者としてあるいは市民として法律とはどんなものであるべきか、何が正しい行いかについて、個人的、あるいは全体的に考える時、私たちは全体の幸福度を最大化させるやり方で行動すべきなのだ。
それゆえ、ベンサムの功利主義は、再大多数の最大幸福という言葉に集約されることも多い。この効用の基本原則を念頭に置きながら、あるケースについて考えてみよう。
今回のケースは架空の話ではない、実際にあった事件で2人の船乗りが被告として裁かれた。19世紀のイギリスの事件はロースクール、法科大学院でもよく議論される。では、どんな事件か説明しよう。概要を説明するので、自分が陪審員だったどう採点するか、考えながら聞いて欲しい。
当時の新聞に事件に背景を解説した記事が載っている。悲劇的な海岸事故の物語だ。船の生存者の物語ほどには語られることはなかった。
この船の名はミニョネット号、南大西洋の喜望峰から2000キロは離れたところで沈んだ。乗組員は4人、船長のダドリー、一等航海士のスティーヴン、そして船員のブルックス、全員素晴らしい人格の持ち主だった。少なくとも新聞はそう伝えている。4人目の乗り組み員はリチャード・パーカー。17歳。彼は孤児で身寄りもなく、これが彼にとっての最初の長い航海だった。
新聞によれば、友達はパーカーを行くなと止めたが、彼はこの旅が自分を男にしてくれるだろうと考え、若者らしい希望に胸を膨らませて、出向した。
だが、悲しいことにそうはならなかった。波が船に打ちつけ、ミニョネット号は沈没。4人の船員は救命ボートへと避難した。唯一の食糧はカブの缶詰が2つだけで、真水はなかった。最初の3日間、彼らは何も食べずに耐えた。4日目にカブの缶詰を1つ開けて食べた。その翌日、亀をつかまえた。それから数日間、彼らはもう1つの缶詰と亀を食べて持ちこたえた。だが、それ以降の8日間、彼らには何もなかった。食べ物も水もなかった。
そのような自分の状況を考えてみて欲しい。君ならどうするだろうか、彼はこうした。すでにパーカーは救命ボートの横に横たわっていた。パーカーは他の者の忠告を無視して、海水を飲んだために具合が悪くなって、死が近いようにみえた。
19日目に船長のダブリーは皆でくじびきを行い、残りの者を助けるために誰が死ぬかを決めようと提案した。ブルックスは拒否した。彼はくじを引いて決めるという考え方が気に入らなかったからだ。
自分が当たったら大変だからと思ったのか、それとも絶対的な道徳的原理を信じていたからなのか、しかし、いずれにしてもくじ引きは行われなかった。その翌日、相変わらず救援船は現れず、ダドリーはブルックスに見ないように言い、スティーヴンにパーカーを殺そうと合図した。ダドリーは祈りをささげた。彼はパーカーにお前は最後の時がきたと告げ、ペンナイフで頸動脈を刺して殺した。
ブルックスは良心による拒否から抜け出し、身の毛もよだつような恵みを共有した。4日間、彼ら3人はパーカーの身体と血液で生き残った。本当の話だ。そして、彼らは救助された。
ダドリーは救助された時のことを信じがたい婉曲表現で日記に書いていた。24日目に私たちが「朝食」を食べていると、ついに船が現れた。3人の生存者はドイツの船に収容され、イギリスに連れ戻され、そこで逮捕され裁判にかけられた。
ブルックスは国の証人となった。ダドリーとスティーヴンは裁判にかけられた。彼らは事実については争わず、必要に迫られての行為だと主張した。そして、3人が生き残れるのなら1人の犠牲は仕方がないと論じた。
検察官はその議論に惑わされることはなかった。検察官は殺人は殺人であると言い、事件は裁判にかけられた。さぁ自分が陪審員だと想像して欲しい。ただ事件を単純化させるために、法律的な問題は横において、
君たちは彼らが道徳的に許されるかいなかのみを判断する責任を負っている、と仮定しよう。
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彼らは有罪ではない、つまり、彼らがしたことは道徳的に許されると思う人?(会場少数手をあげる)
いや、有罪だ。彼らがしたことは間違っている、と思う人?(会場大多数)ほとんどの人がこっちだね。
じゃあ、その理由を聞いていこう、少数派から始めよう。まずはダドリーとスティーヴンを弁護する側から聞きたい。なぜ、なぜ、彼らの行為は道徳的に許されると思うのか。君!
学生A:道徳的には避難されるべきであると思います。でも、道徳的に避難されるのと法的に責任があるのとは違います。逆に道徳的なことがいつも法にふれるわけではないとは限りません。僕は必要だったからという理由が盗みや殺人や、いかなる違法な行いも正当化するとは思いませんが、必要性の程度が有罪を免除されるケースもあると思います。
よろしい。弁護側の他の意見を聞きたい。彼らがしたことをどうやって道徳的に正当化するのか。君!
学生B:そういう状況で生き残るためにしなければならないことをしなければなりません。
しなければならないことを?
学生B:しなければならないんです。食べ物なしに19日間を過ごし、誰かが犠牲になれば、他の人が生き残るんですから。もしも生き残った彼らは100万ドルのチャリティーをはじめるとかして、社会に貢献したとすれば、みんなのためになったわけですから。いや、もちろん僕は彼らがその後、何をしたのか知りません。もっと人を殺したかもしれませんけど。
故郷に戻って、彼らが殺し屋になったとしたら?
学生B:彼らが殺し屋になったとしたら?
誰を殺したか知りたいよなぁ。
学生B:たしかにそうですね、知りたいですね。
結構、君の名前は?
学生B:マーカス
マーカスありがとう。私たちは弁護側の意見を2つ聞いた。次は検察側から聞いてみよう。ほとんどの人は彼らがしたことは間違っていると思っている。なぜか。君!
学生C:私が最初に考えたことは、長いことが食べずにいたのだから、彼らは精神的に影響を受けていたかもしれないし、それを弁護に使えることです。つまり、彼らは適切な心理状態ではなかった。適切な心理状態であったならしていたであろう、決断をしなかった。適切ではない心理状態でなかったからこそ、そのようなことをしてしまったと言えます。でも、こう弁護する人たちは、本心は彼らの行為は道徳に反していると考えているといわけです。
君はどう思うの?君は彼らを弁護しているが、君は有罪派?
学生C:はい、私は彼らが道徳的に正しいとは思いません。
なぜ、正しくないのかな?さっきマーカスが彼を弁護した時、何て言ったか聞いていたよね。

学生C:はい。
しなければならないことをしなければならない。君はマーカスになんと反論する?
学生C:人間が他の人間の運命を決めたり、他の人間の命を奪うことは、どんな状況でも認められません。人間にはそんな権限はないのです。
結構、君の名前は?
学生C:ブリット
ブリットありがとう、他には?どう思う?立ち上がって!
学生D:ダドリーとスティーヴンが死ぬことについて、パーカーの同意を求めていたらと思います。それは、彼らの殺人行為から免除されるでしょうか。だとしたら、それでも道徳的に正当化できるでしょうか。
それはおもしろい、同意か、君の名前は?
学生D:キャスリン
キャスリンの言うように、もし、彼らがパーカーの同意を得ていたらどうだったろう。ダドリーがペンナイフを手にして、お祈りをせずに、あるいはお祈りの前にパーカーにこう言う。「パーカー殺してもいいかな?」(会場笑い)
オレたちは腹ペコなんだ。さっきマーカスも言ってたけど、めちゃくちゃ腹ペコだ。どっちにしろ君は長くは持つまい。
学生D(キャスリン):君は殉教者になれるぞ(笑)
殉教者になってくれ。頼むよパーカー(会場笑い)
それで、道徳的に正当化されるだろうか、パーカーが半分意識がもうろうとした状況で「いいよ」って言ったら?(会場笑い)
学生D(キャスリン):それでは道徳的に正当化できるとは思いません。
それでも正当化できない?同意があっても道徳的に正当化できるとは思わない。キャスリンの同意を巡る考えだが、同意を得れば、道徳的に正当化されると思う人?されると思う人は手をあげて!(会場そこそこ手があがる)
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これはおもしろい、なぜ同意が道徳的な違いを生むのか、なぜ正当化されるのか?
学生E:パーカーが自分からそう言い出せば、その場合に限ってのみ、彼の命を奪うことが正しいと認められると思います。その場合には彼がプレッシャーをかけられたということはできないからです。これは3対1の状況、大勢対1人ですから。自分で自分で命を与えることを決め、誰かに頼んで殺してもらおうとすれば、安心する人もいるだろうし、その決断に反対する人もいるでしょうけど。
すると、彼が自分から死ぬと言い出した場合のみ、道徳的に間違っていない。だったらオーケー、というわけだね。さもなければ、それは状況の下で強制された同意になると考えるんだね。
パーカーの自発的な同意があっても、仲間が彼を殺すことは正当化されないと考える人はいないか?なぜか教えて欲しい。君!
学生F:パーカーが殺されるのは、他の乗組員が救助されるという望みがあるからですよね、でも、いつ助けが来るとはわからないんですから、パーカーが殺されるべきだという明白な理由はありまえん。だから無意味な殺人です。救助されるまで、誰もいなくなるまで仲間を殺し続けるんですか?
この状況の道徳的な論理はそうだね。救助されるまで、一番弱い者を一人ずつ選んでいく、というものだろうね。この事件の場合は幸運には3人がまだ生きているところで救助されたということだ。
さぁ、パーカーは同意したとすると、これで問題ないのだろうか。
学生F:いえ、正しくありません。
なぜ、正しくないのかな?
学生F:カニバリズムは道徳的正しくないと思います。とにかく人間を食べるべきではありません。
カニバリズムは道徳的にあるまじき行為だというわけだ!じゃあ、殺すのではなく、死ぬまで待った場合でも、やはりしてはいけないと。
学生F:はい、私個人としてはそう思います。全ては個人の道徳観で決まると思います。でも、これは単に私の意見です。もちろん反対する人もいるでしょうけど。
じゃあ、君を説得できる理由があるかどうか、みてみるとしよう。それじゃあ、誰か、同意があればオーケーと思う人の中で、なぜ同意がそういう道徳の違いを生むのか説明できる人は?
くじを引くというアイデアはどうだろう、これを同意と考えられるだろうか。思い出して欲しいのは、最初にダドリーはくじ引きを提案しているところだ。仲間がくじ引きを同意したとしよう。それなら問題はなくなると思う人は?くじを引き、パーカーが負け、パーカーが殺されることになったとする。それなら道徳的に許されると思う人は?くじ引きを加えると賛成する人数が増えた。
くじ引きが道徳的な違いを生むという人の意見を聞こう。その理由は?
学生G:僕はそれを犯罪足らしめる必要不可欠要素は彼らがある時点で自分たちの命は彼の命より大事だと考えたからだと思います。どんな犯罪にもその根底には自分の必要なものや欲望は人のより優先されるという考えがあります。でも、くじ引きに同意したのなら、彼らは全員、仲間を助けるために、自分を犠牲にするということですから。
問題はなくなる?
学生G:グロテスクではありますが。
道徳的には許される。君の名前は?
学生G:マット
つまり、君がひっかかるのは、人の肉を食べることではなく、適正な手続きがないことなわけだ。
学生G(マット):ですね。
よろしい。ではマットに賛成の人で、なぜくじ引きがそれを道徳的に許されるものにするのか、さらに説明してくれる人、君!
学生H:私の理解では問題はパーカーは自分の身に何が起こるのか聞かされていない、元々のくじ引きの場合でも、自分が参加するかどうか、意見を聞かされていないということです。彼が死ぬことになるんだと決められただけで、、。
そう、実際はそうだった。しかし、もしくじ引きがあり、全員がその手続きに同意したらオーケーしたら問題ないかな?
学生H:はい、それなら全員誰かが死ぬとわかっているから。でも、パーカーはその議論が起きたことを知らなかったし、君が死ぬことになるかもしれないぞ、と知らせる警告すらなかったわけです。
じゃあ、全員がくじびきに同意したとしよう。そして、くじ引きをしたらパーカーが負け、気を変えたら、、。
学生H:いえぇ、同意は同等の契約のものようなものだから、撤回はできません。自分が死ぬのは仲間を助けるためだとわかっているんだし、自分だって他の誰かが死んだら食べるでしょう。
まあね、でも、やはり自分が負けたら嫌だよ。
学生H:パーカーには何も相談がなかったということが、道徳的問題の全てであって、彼には何も知らされなかったことがおそろしいんです。知らせていたのなら、彼らの行為も少しは理解できますけど。
よろしい、彼らの行為は道徳的に許されると考えるものもいるが、たったの20%だ。マーカスを筆頭に。そしてここでの本当の問題は同意がないことだと考えるものだという。くじ引きへの同意、公正な手続きへの同意がないことだと考えるものもいれば、キャスリンのように死ぬ前の同意がないことが問題だと言うものもいる。
いずれにせよ、同意があれば犠牲は道徳的に正当化されると考える人は増えてくる。最後に同意があってもなお、くじ引きへの同意があっても、今際の際(イマワノキワ・死に際)にパーカーが同意の言葉をつぶやいたとしてもなお、犠牲にするのは間違っていると考える人の意見を聞きたい。なぜ間違っているのか、そこを聞かせて欲しい。
学生I:私はずっと、無条件の道徳理論の立場です。くじ引きへの同意で、大丈夫な可能性もあると思います。負けたものが誰の手も借りずに自殺をすれば、殺人行為になりません。でも、たとえそういう方法であっても、それは強制だと思います。それにそこには良心の呵責(カシャク・責めさいなむこと)があったとは思いません。ダドリーは日記に「朝食を食べていた」なんて書いていますから。他人の命を重んじるようなタイプには思えません。無条件道徳論です。
告発したい?良心の呵責を感じておりず、悪びれないかな?
学生I:はい。
よろしい。同意があろうがなかろうが、無条件に断固として間違っているという人は?立って!なぜだい?
学生J:殺人は殺人です。我々の社会においてはどんな場合にも殺人は殺人で、殺人に違いがあるとは思えません。
1つ質問だ。1人の命に対して3人の命がかかっていた。1人の方の少年パーカーが身寄りも家族もいなかったが、他の3人には国に帰れば、身寄りも扶養すべき妻子もいた。
ベンサムに戻って考えよう。
ベンサムは私たちは皆の福祉、効用、幸福を考えるべきで、その全部をたして考えなければならないと言っている。それは単に3人対1人ではなく、故郷の家族も関わってくる。事実、当時のロンドン新聞や大衆の意見はダドリーやスティーヴンに同情的だった。新聞は故郷の家族への愛情や心配がなかったら、彼らはこんなことはしなかっただろうと書いた。
学生J:でも、失業している人たちだって、家族を養いたいと思うのは同じじゃないですか。どんな場合でも自分の状態をより良いものにするために誰かを殺したら、それは殺人です。どんな理由の殺人であれ、殺人は殺人であり、例外をつくってはなりません。同じ行為は全て同じ、殺人も殺人にいたる精神状態も家族を養う必要性も同じです。
これが3人ではないと仮定しよう。30人、いや300人だと仮定しょう。例えば戦争中で3000人の命がかかっているとしたら、どうだろうか?
学生J:もっと大勢の命がかかっていてもやはり同じです。
ベンサムは正しい行いとは、集合的な幸福を増すことだと言っていることは間違いだ、と思うわけだ。
学生J:そうは思いませんが、殺人は殺人です。
だとしたら、ベンサムは間違っている。
学生J:えぇ、僕が正しいです。
ありがとう、結構だ、議論から一歩離れて、彼らがしたことに対して、いくつ反論が出たか考えてみよう。
彼のしたことを弁護する意見もあった。
あの悲惨な状況で生き延びるには必要だったという意見。また、数も重要だという示唆もあってね。当事者の数だけでなく、もっと広い効果も重要だ。彼らは故郷に家族や扶養する者がいたが、パーカーは孤児だった。彼がいなくなっても悲しむ者はいない、だからこれらを足し合わせて、幸福な苦しみのバランスを計算すれば、彼らがしたことは正しかったという言い分もあるかもしれない。
しかし、これに対して3つの異なるタイプの反論があった。
彼らがしたことは絶対間違っているという反論。最後にマイクが述べた通り、殺人は殺人。例え社会全体の幸福が増えるにしても、無常権に反対という意見だ。絶対に許されないということだねぇ。しかし、殺人が無条件に誤っている理由を調べる必要がある。
最初の質問だ。殺人が正当化され得ないのは、少年さえもある種の基本的権利を持っているからなのか、だとしたら、その権利はどこから来るのか、全体の福祉や効用や幸福という考え方からくるのではないとしたら、どこからくるのか。
それが質問の1。






くじを引けば事情は変わるという人もいたね。公正な手続きが必要だとマットは言った。その意見に傾く人もいた。その意見は無条件に反対ではない。
一人一人が公共の福祉のために犠牲になることはあっても、この考えは別の質問を提起する。なぜ、ある公正な手続きをすることに皆が同意しさえしていれば、その手続きをふんだことによって生じる帰結を正当化することができるのかこれが質問の2。
そして、第3の質問は、提起したのはキャスリンだ。犠牲となったパーカーが自ら同意したのなら、そして付け加えられないように、強要の下でなければ、残りの者を助けるために、彼の命を奪ってもいいのではないか、この考えに賛成した者は多かったね。しかし、それは第3の哲学的な質問を提起する。同意が行う道徳的な働きはなんだろうか、なぜ同意するという行為は道徳的な違いを生み出すのか、命を奪うという行為は同意なしでは許されないが、同意があれば道徳的に許されるようになるのはなぜか。
この3つの質問に答えるためには、何人かの著作を読まなければならない。次回から功利主義の哲学者、ベンサムとジョン・スチュアート・ミルを読むことにしょう。












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